ぺーぺーぷーぷーな日々

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抜き書き〜宮城谷昌光 三国志 第二巻

今回は第二巻からの抜き書き。
この巻では、「老子」と「玄徳」についての考察が印象深い。

権力は国家と体制の安定から生ずる。そのしくみが時に対応する機能をそなえていないかぎ り、時の推移と王朝とはずれを産む。同時に、安定は時のながれに添わない安定であるから、じつは不安定なのである。頑固であるということは、真理において 不動であることではなく、時を忘却した安定という幻想に倚几(いき)しているにすぎない。王朝という大船に乗った人々は、船のなかばかりをみているので、時という大河をくだっていることに気づかないし、この船は不沈であると信じているので、あちこちの破損や船底の浸水を軽視し補繕の手をうたない。積載量の過剰に危険を感じない。船が不安定になっているのに、なぜ改革がおこなわれないのか。改革は船のなかだけの 安定を毀し、それに付帯していた利権をそこなうからである。

宮城谷昌光 三国志 第二巻 「曹騰」 104p)


世の中は常に変化していると思うべし。

それを想うと、
「玄徳」
という劉備のあざなはおもしろい。『老子』のなかに、
ーー生じて有(ゆう)せず、為(な)してた恃(たの)まず、長じて宰(さい)せず、是れを玄徳と謂う。
と、ある。産みだしても所有せず、成功しても誇らず、そこで最高になっても支配するようなことをしない。それを玄徳というのである。劉備の生涯をみると、その一文の原理に適っているような気がしてならない。曹操は古学をよく識っている男だが、その発想は必ずしも儒教的ではない。そういえば前漢の高祖も儒教を忌み嫌って天下を取った。戦乱の世で、人と物事を洞察する根源的な力を儒教はもっていない。老荘思想のほうが人に心眼をそなえさせひらかせるのかもしれない。

宮城谷昌光 三国志 第二巻 「争臣」 169p)


宮城谷さんの劉備に関する考察は実に面白い。

天下の士は争うように李膺に面会を求めた。だが気位の高い李膺は、これはと思う人物にしか会わなかったので、李膺に認められて出入りが許された者は、
「龍門に登った」
と、羨望をもってたたえられた。
河水の上流にある龍門まで登った鯉は龍になるという伝説があり、無名の士が李膺に認められたことで有名になることを、
「登龍門」
と、呼んだのである。

宮城谷昌光 三国志 第二巻 「李膺」 194p)


私の雑学に加えたい。

たとえば『老子』には、
ーー道は隠れて名無し。
と、あり、道とは人の目にみえず名状しがたいものであると説かれているが、儒教の道とはそうではない。『論語』に、
ーー人能く道を弘(ひろ)む。道、人を弘むに非ず。
と、あって、人が道を弘めるのであり、道が人を弘めるのではない、といっている。儒教の道は隠れておらず、人が名づけうるものである。

宮城谷昌光 三国志 第二巻 「竇武」 210p)


老子孔子との考え方の違い、その一端。

梁冀の哀しさは、組織を破壊するものではなく、腐敗させる者だということである。その点、かれは死ぬまで組織の外にでられず、組織の毒をかぶることになる。

宮城谷昌光 三国志 第二巻 「虎狼」 270p)


組織にぶら下がるだけにとどまらず、組織を腐らせる。
梁冀に関する記述は、読んでいてホントに憂鬱になります。


三国志 第二巻

三国志 第二巻

三国志〈第2巻〉 (文春文庫)

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