中国史は、ふしぎなところがある。後代のほうが文化の均一性が高くなるのは当然であるとして、知的好奇心が衰弱することである。後漢の末ごろからいわゆるアジア的停頓がはじまり、その停頓が、驚嘆すべきことに、近代までのながい歴史のなかに居座りつづける。
が、いわゆる先秦時代からこの時期までの中国は、べつなひとびとによる社会であったかと思えるほどにいきいきしている。
- -
項羽と劉邦(下) (新潮文庫)(解説より)
- 作者: 司馬遼太郎
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1984/09/27
- メディア: 文庫
- 購入: 5人 クリック: 87回
- この商品を含むブログ (60件) を見る
上記は司馬遼太郎の「項羽と劉邦」のあとがきの文章です。
確かに、古代中国における諸子百家の様々な思想は面白いんだけど。
最近のニュースを見ていると、何だか言い得て妙。
中国に対しては、あそこはまだ民主的な国家じゃなかったんだ、ということを認識せざるを得ません。
これだけ市民交流が活発になっても、経済の相互依存が増していっても、国単位となると、こうも歪なものなのか。
観光客も留学生も出稼ぎ労働者も中華料理店も周りに沢山いるんだけども。
Twitterで、組織に属するサラリーマンという軛から逃れて、個人が自由に発言するように、
サッカーの中心が、ワールドカップという国単位の代表チームよりも、オラが町のクラブチームのほうが魅力的で、戦術的にも先進的であるように、
国という単位よりも市民という単位に解体されていったほうが世の中楽しいんじゃないかって思っています。
まあ、ご近所同士の住民トラブルは常にあるわけですがw。