ぺーぺーぷーぷーな日々

Claris FileMaker と戯れる日々です。

孔子と老子の違い

それを想うと、
「玄徳」
という劉備のあざなはおもしろい。『老子』のなかに、
――生じて有(ゆう)せず、為(な)してた恃(たの)まず、長じて宰(さい)せず、是れを玄徳と謂う。
と、ある。産みだしても所有せず、成功しても誇らず、そこで最高になっても支配するようなことをしない。それを玄徳というのである。劉備の生涯をみると、その一文の原理に適っているような気がしてならない。曹操は古学をよく識っている男だが、その発想は必ずしも儒教的ではない。そういえば前漢の高祖も儒教を忌み嫌って天下を取った。戦乱の世で、人と物事を洞察する根源的な力を儒教はもっていない。老荘思想のほうが人に心眼をそなえさせひらかせるのかもしれない。
宮城谷昌光 三国志 第二巻 「争臣」)


宮城谷昌光氏の「三国志」を読んで、改めて劉備玄徳の「玄徳」という単語は、老子に出てくる用語であったことに気が付きました。
「あざな」は成人してから自分でつけると聞いたことがあるので、劉備はやはり老荘を意識して自らに玄徳というあざなをつけたんだろうと思うほかありません。そう考えると、三国志演義劉備の描かれかたは、やはり虚像ですよね。
また同時に、上記宮城谷さんの文章からは、孔子儒教)と老子老荘道教)という2つの考え方の源泉にある違いにも気付かされます。
「おお、そうだったのか」と思うほかありません。


孔子老子の違いについては、司馬遼太郎氏の「項羽と劉邦」にも両者の違いを描写した場面があります。
レキ食其(レキイキ〜レキ生・れきせい)と韓信の会話です。
レキ食其が儒教の立場、韓信老荘の立場。
レキ食其はいわゆる外交官であり、韓信は野戦の司令官です。
韓信と言えば「背水の陣」でも有名です。

「大きなまちがいだ」
すこし儒教を教わるほうがいい、とレキ生(れきせい)はいった。
「たとえばお前さんには、基準というものがないよ」
「なんの基準です」
「人としての生き方の基準、物の考え方、あるいは行動の仕方についての基準だ」
「基準はないほうがいいんです」
韓信は、蝿を追うようにいった。
司馬遼太郎 項羽と劉邦 下巻 「背水の陣」)


この二人、かたやレキ生は、基準でもって国を建てようとし、かたや韓信は、戦場は千変万化すると考えている。
よくよく考えると、2つの思想の違いが現れていますよね。


思えば、楚漢戦争の頃の人物には老荘の徒が多い。ような気がする。
韓信もそんな感じだし、張良もそうだ、范増もどうやらそんな匂いが。


史記で彼らを著述した司馬遷にも老荘の気配がある。
例えば叔孫通への論評がそうだ。

叔孫通は出世をねがって時務を度(はか)り礼法を制し、進退を自生に合わせ、遂に漢家の儒宗(儒者の大元締)となった。いわゆる「大道は屈するごとく、道はもと委蛇(いい)たり(ほんとうに、まっすぐなものは曲がって見えるように、正しい道も、もともと曲がりくねっているものである)」とは、けだしこうしたことを指していうのであろうか。
司馬遷 史記 列伝 「劉敬叔孫通列伝第三十九」)


叔孫通は儒教の大家であり、漢家の儒宗。その人に対してこの論評。もちろん褒めているんだろうけど「道はもと委蛇(いい)たり」など、叔孫通に対して「老子みたいですね」と言ってるようにしか思えない。(大直は屈せるが若く 老子 第45章)


司馬遷は内心、「洒落がきいてるだろ、デヘッ」なんて思っていたのかもしれません。


最後にもうひとつ、宮城谷さんから引用しておきます。

たとえば『老子』には、
――道は隠れて名無し。
と、あり、道とは人の目にみえず名状しがたいものであると説かれているが、儒教の道とはそうではない。『論語』に、
――人能く道を弘(ひろ)む。道、人を弘むに非ず。
と、あって、人が道を弘めるのであり、道が人を弘めるのではない、といっている。儒教の道は隠れておらず、人が名づけうるものである。
宮城谷昌光 三国志 第二巻 「竇武」)


私はやっぱり老子が好きです。