「先ず隗より始めよ」
これは、郭隗による有名な言葉なのですが、この言葉に招き寄せられた人物の中に楽毅がいたとは、恥ずかしながら今まで知りもしませんでした。
- 作者: 宮城谷昌光
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2002/03/28
- メディア: 文庫
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有能な人を推挙することの重要さについては、孔子が、
「賢者を推薦する人が賢者なのですか」
「そうだ。鮑叔は管仲を成功させ、子皮は子産を成功させた。ところが、管仲と子産が自分の才にまさる者を成功させたとは、きかぬ」
(宮城谷昌光 子産 下巻)
と語ったことを考えると、楽毅よりも郭隗のほうが偉い、ということになる。確かにそうかもしれない。
ところで、「先ず隗より始めよ」という言葉の真意は、「手近なところから始めてみなさい」、という意味よりも、
だが郭隗の考えでは、自分の存在を無に近づける者のほうが偉いということになる。すなわち人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる。
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とにかく昭王にわかったことは、 ──おのれを棄てなければ、人はみえぬ。 ということである。
というところにその深淵があり、その思考と行動の有り様が楽毅と協和したといえるのでしょう。
思えば、自分より有能な人物を推挙した例として、三国志の時代に諸葛亮を推挙した徐庶という存在があります。
徐庶については、宮城谷さんの三国志のなかに、私にとって忘れられない描写があります。
劉備に臣従するようになったのは、劉備から任侠の臭いをかいだわけではなく、王業あるいは覇業という未来図を劉備の上に画いたためであるが、諸葛亮が劉備に近侍するようになってからは、劉備は徐庶が画いた未来図を視ずに、諸葛亮の遠籌(えんちゅう)ばかりを覽るようになった。
ーー私は無益な存在になったらしい。
徐庶は失意の人となった。それは多くの人を活かすことができる組織をもっていない劉備の哀しさでもある。
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それから数年後に徐庶は病で卒した。
かれは劉備をつかって臥竜を起こし、その龍の背におのれの夢をくくりつけると、その夢を手放して、覇権を天空でつかむような飛翔につきあわず、老母の手をひいて地上を歩いたといえよう。その地上に龍の翳が落ちたのをみたにちがいないのに、一言の感想も遺さずに死去した。
どうして劉備や諸葛亮は徐庶を引き止められなかったのだろう、そういう疑問が若い頃からありました。
宮城谷さんの三国志を読むことによって、そのころ徐庶の胸のうちに多少なりとも共感できたような気がします。あゝ、徐庶。
さて、「楽毅」という小説の紹介なのに、楽毅と直接関係のないことばかり書いてしまいました。
むろん、楽毅は軍事だけでなく、外交にも行政にも卓越した能力を持った人物であり、忠臣としての有り様も見事だった。
それが見事な文章で綴られていて、全4巻を一気に読み進めてしまいました。
読了後、私がこの小説を読んで素朴に思ったこと、それは、
自らを韜晦するような術を身につけたいものだ。
ということでした。ちょっと逆説的かもしれないけれど。