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抜き書き〜宮城谷昌光 三国志 第五巻

抜き書き第五巻。孫策が台頭し、袁紹が没落する巻。

孫策

とはいえ、功労者を上位に置くだけの人事は、安定した政体のなかでは、よいかもしれないが、政権が動態の上にあるときは、主導者は明確に未来を描ききって、適材適所をこころがけねばならない。要するに、新しい政体には、新しい人が必要である、ということである。

宮城谷昌光 三国志 第五巻 「孫策」 14p)


とはいえ、明確に未来を描ききるのが難しい。

孫策は全軍に掠奪を厳禁している。このころ掠奪をおこなわない軍はないといってよく、それをしなければ軍全体が干あがってしまうというのが実情であった。孫策軍にも兵站はない。後方支援の機関をもっていないので、滞陣すれば全軍が餓死してしまう。それを承知で孫策は、人々の家畜や作物に指一本ふれてはならぬ、という軍令をくだした。人民の財産を奪えば、人民から捨てられる。人民に愛されるようになれば、けっして飢えることはない、と信じている。

宮城谷昌光 三国志 第五巻 「孫策」 26p)


古来から明確な意志を持った「解放軍」はあった。

袁紹

袁紹はかつて宦官を誅滅するときにも、董卓を呼び寄せるなど、まわりくどいことをおこなった。それが袁紹の慎重さであるといえばそうかもしれないが、ものごとの本質を洞察して適切な手段をすばやくとるという体質をもっていない人である。

宮城谷昌光 三国志 第五巻 「素志」 48p)

それにしても、多端寡要、好謀無欠とは、袁紹の本質をじつに的確に表現しているといえるであろう。多端は多忙といいかえてもよく、寡要はかんじんなかなめが寡いということなので、いくつもむだなことをやっているが大事なことがわかっておらず、謀を好むのになにひとつ決定しない、というわけである。

宮城谷昌光 三国志 第五巻 「新都」 90p)

袁紹の外貌は寛大そうであるが、内心ねたみをもち、人に事をまかせておきながら信用しない。また、鈍重で決断力に欠け、好機をみのがす欠点がある。さらに、軍の統率はゆるく、法令はあってなきがごとしで、たしかに士卒は衆いものの、かれらをすべて用いるのは難しい。袁紹門閥によりかかり、従容として知者のふりをして、名声を集めている。それゆえ能力がとぼしいくせに問答好きの者が多く帰属している。
曹操はその逆であるといってよい。

宮城谷昌光 三国志 第五巻 「僭号」 128p)


ああ、悲しいかな袁紹

曹操

曹操は多数の意見にまどわされない。誤った意見や見通しの甘い意見は、傾聴に値しないので、意見であるとは認めない。それゆえ荀攸の意見に同調する者がいなくても、曹操にとってその意見がすべてであった。諸将の全員が賛成し、納得するような戦略とは、もはや戦略とはよべないものだ。

宮城谷昌光 三国志 第五巻 「下〓(かひ)」 199p)


必ずしも議論百出する会議がいいとは限らない。

「昔、伍子胥(ごししょ)は早く悟らなかったため、みずから見を危うくした。なんじがここにきたのは微子(びし)が殷を去り、韓信が漢に帰したようなものであろうか」
と、張〓(ちょうこう)の暗い気分を払ってやり、かれを偏将軍に任命した。主に背いた張〓(ちょうこう)の道義的な罪を、微子と韓信をもちだして消してやった曹操の優しさは、どうであろう。
ーー曹公とはこういう人か。
おそらく張〓(ちょうこう)は地に頭をつけて泣いたであろう。こういう人のためなら死ねる、とおもったにちがいない。

宮城谷昌光 三国志 第五巻 「官渡」 315p)


逆に、これほどの名将を去らせてしまった袁紹。悲しいかな袁紹

「わたしは天下の智者と勇者にまかせ、道をもってかれらを御します。そうすれば、できないことは、ひとつもない」
つまり、曹操は、人に拠る、と答えたのである。地に拠る、といった袁紹はおのずと自身の限界を示したといえるであろう。地にしがみつくから、よけいに苦しい。その点、劉備は賢い。

宮城谷昌光 三国志 第五巻 「官渡」 323p)


袁紹の着想は物理的にすぎたということか。悲しいかな袁紹

学問

歴史は知恵の無限大の宝庫であるといえる。それを識るがゆえに、それにとらわれ、苦しまねばならぬということがあるにせよ、そうなる者には謙虚さが足りず、ほんとうの学問をしなかったともいえよう。うぬぼれていては、自分のなかに知恵をうける器をつくれない。

宮城谷昌光 三国志 第五巻 「新都」 71p)


宮城谷さんの本では学問することの大切さが繰り返し語られる。

きき手の質が高ければ、諫言や直言をためらう必要がなく、微妙なことを述べても解説しなおさなくてすむ。

宮城谷昌光 三国志 第五巻 「新都」 74p)


ほんと、そのほうが楽。

ーー趙括をみよ。
 と、劉備はいいたい。昔、趙という国に趙奢という名将がいたが、その子として生まれた趙括は父と兵事を論じては、かならず父をいい負かした。だが、実際に大軍をあずかって戦ったところ、惨敗し、自身も戦死した。それゆえ兵法書は実戦にはかえって害になると劉備は頭から軽視した。一方、曹操は『孫子』を誦読し、註を付すことができるほど精通している。それゆえ劉備は兵術において曹操におよばなかったというのは早合点であり、みずからを解放するところまでやってこそ真の学問であるという体験をしなかったことで、劉備は学問蔑視にとらわれてしまったといえる。書物にとらわれないようにすることに、とらわれてしまったといいかえることができる。したがって劉備の兵術は我流であり、法がないために、法を超えた法、というような兵術の極意に達しようがなかった。


宮城谷昌光 三国志 第五巻 「密詔」 264p)


「みずからを解放するところまでやってこそ真の学問である」。



三国志〈第5巻〉

三国志〈第5巻〉

三国志〈第5巻〉 (文春文庫)

三国志〈第5巻〉 (文春文庫)

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