抜き書き第四巻。曹操が台頭してくる巻。
君子は固(もと)より窮(きゅう)す。小人窮すれば斯(ここ)に濫(みだ)る。(『論語』)
と孔子はいったが、窮地に追い込まれても乱れなかった荀攸こそ、正真正銘の君子といってよい。肝胆の鍛え方が尋常ではない。十三歳で父を喪ってから、他人に頼らず、自立する目で、世間と官府を観てきたせいで、独特な知恵と観賞力をそなえたといえるであろう。
それゆえ獄からでた荀攸は、
「王允と呂布の王朝か・・・」
と、つぶやき、王朝にとどまろうとはせず、あっさり官を捨てて故郷に帰った。
尋常ではない肝胆の鍛え方っていうのは、どうやって培われるんだろう。
配下に難事を処理させる場合、あらかじめ、
「こうせよ」
と、教えて送りだすか、まかせたかぎり何もいわぬか、それが人をつかう者のありかたであるのに、袁紹は出発まぎわの董昭をつかまえて、方法を問いただした。答えが気にいらないときは、袁紹はどうするつもりなのか。
ーーこの人は、人を見抜けないのか。
あるいは何事にたいしても疑念をいだくのか。董昭は小さな怒りと大きな不快をおぼえた。
それは民衆の怒りの表現であるにはちがいないが、そのうしろにどれほどの悲哀が積もってきたことか。そういう民衆の感情と時代の必然がわかって、今後の計略に活かそうとしたのは、曹操しかいなかったといってよい。
その曹操ですら徐州で無駄な虐殺劇を演じてしまうわけですが。
たしかに袁術は朝廷にはいっても実務官になることはけっしてあるまいが、学問がむしろ人の器を小さくすると考えて、言語に真剣にむきあわなかったことは、やはり人格的あるいは度量的成長に限界をつくったといえる。言語はけっして無機的なものではなく、あえていえば人の内側の感覚の目をひらかせる。それは、からだを激しく動かさなくても鷹と狗のあとを追って走るときに眼前にひらける風景にまさるともおとらない景観をみさせてくれるし、おなじような爽快感をもたらしてくれる。
権門に生まれ育つということは、世間的にみるまでもなく、過保護を享受することにほかならず、恐れるという感覚を身につけようがない。屋外にでてどれほどきわどいことをおこなっても、袁術は安全な環境のなかにいたことになる。ところが学問はそういう環境をけっして安全であるとはみなさない精神を育てる。あるいは、よりよい環境を想像する力を培養する。『論語』ひとつをとっても、そこには改革の精神が充溢しているではないか。すなわち恐れと批判力とをもたぬ者は、正しい認識力と強い想像力をもちようがない。
学問に向き合うことの必要性。勉強することを怠ってはならぬ。
戦いを開始したあとの大将は、戦陣を巨細となく知るという感覚をそなえていなければならず、知る正確さの上にあらたな予断をおき、的確な判断をくださなければならない。戦術を究察していた曹操でさえ、初陣ではそれができず、みじめに敗退したのである。
曖昧な情報を基にして予測をたてる、それはただの妄想。世の中には結構多い。
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