ぺーぺーぷーぷーな日々

Claris FileMaker と戯れる日々です。

5月に読んだ本:宮城谷「三国志」

結局5月は、宮城谷昌光さんの三国志を全巻(現在第6巻まで刊行)購入して読んでしまう。
ひたすら、この6冊だけ。


それにしても、昔から三国志が好きで、三国志の知識はそこそこ持っているつもりだったんだけど、後漢王朝についてはほとんど知らなかったんだなぁ、とつくづく思う。
そして、三国志という時代は、安定した王朝を腐敗させていく者達から、それを破壊していく者達へと移り変わっていく時代であったことに気づく。


第2巻の主役は跋扈将軍・梁冀。

梁冀の哀しさは、組織を破壊するものではなく、腐敗させる者だということである。その点、かれは死ぬまで組織の外にでられず、組織の毒をかぶることになる。(第二巻)


後の董卓の暴虐ぶりも凄まじいが、董卓は破壊者である。王朝という組織に依存していない。
それに比べて王朝に寄生していただけの梁冀の方が、確かに性質として悪い。ねちっこい。
董卓が実力者として軍を統率していたのに対し、「大将軍」の梁冀は軍を率いたこともない。
称号だけの「将軍」として君臨できてしまうところに、王朝としての不可解さがある。
安定した内部にどっぷり浸かっていると、その不可解さに気が付かなくなる。怖いことだ。

権力は国家と体制の安定から生ずる。そのしくみが時に対応する機能をそなえていないかぎり、時の推移と王朝とはずれを産む。同時に、安定は時のながれに添わない安定であるから、じつは不安定なのである。頑固であるということは、真理において不動であることではなく、時を忘却した安定という幻想に倚几(いき)しているにすぎない。王朝という大船に乗った人々は、船のなかばかりをみているので、時という大河をくだっていることに気づかないし、この船は不沈であると信じているので、あちこちの破損や船底の浸水を軽視し補繕の手をうたない。積載量の過剰に危険を感じない。船が不安定になっているのに、なぜ改革がおこなわれないのか。改革は船のなかだけの安定を毀し、それに付帯していた利権をそこなうからである。(第二巻)


第3巻以降、ようやく曹操たちの活躍となる。
そして宮城谷さんの描写でも、やっぱり英雄は曹操である。


結構、抜き書きしたい表現があるので、また日記に書くかも。

合本 三国志【文春e-Books】

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